かえでシロップ
(番外編)一緒にご飯を食べたあと

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 時刻は午後九時前。だいたいいつもの時間。
 マンション前まで帰ってきて、亨は自分の部屋のあたりを見上げた。疲れて帰ってきても、そこに明かりがついているのを見るだけで、ほっと身体が軽くなる気がする。
 どうやら楓は今日も来ているらしい。来ないというメッセージが入っていなかったから、たぶん来ているだろうとは思っていた。
 来るときではなく来ないときに連絡が入るのだから、来ないことの方が少ないわけで、そろそろ「弟を返せ」と桜からお叱りを受けそうな気がしている。側に置いておくのが当たり前になっていて、家に帰る回数を増やしたほうがいいとはなかなか言えずにいる。楓の持ち込んだ荷物が増えてきたので、倉庫にしている部屋を片そうかと考えているのは、帰す気など無い証拠なのだった。
 はたして自分は悪い大人なのだろうかと自問しながらエントランスに入り、ポストを確認する。夕刊とダイレクトメール二枚と淡い青色の封筒が届いていた。封筒を裏返してみると、差出人は知り合いの二人。話は聞いている。結婚式の招待状だろう。新婦と共通の友人である香世が言っていた。「鞠、結婚するんだって」と。
 香世によると鞠は亨も式に呼びたがっているとのことだったが、本当に招待状を送ってくるとは思わなかった。もう鞠にわだかまりはないので、出席するのはやぶさかではないのだが、新郎としては式に元カレが来るというのはどうなのだろう。
 喋らなければバレはしないだろうが、披露宴で酒が入ると誰かが漏らす可能性はある。二次会はさらに危険だ。そうなると、宴中ずっと「お前なんで来やがったんだよ」という新郎側の視線に耐え続けることになるのだ。
 それがきっかけで新郎新婦の仲にひびが入ることだってある。行かない方が賢いか。まず香世に相談してみよう。いや、元カノの結婚式なんて楓が絶対嫌がるから、断ろう。そうしよう。
 頭の中であれこれつぶやきながら、エレベーターに乗り込む。
 鞠と付き合っていたのは大学の一年の終わりから四年までの三年間だ。卒業を間近に控えた時期、今では懐かしいだけだが、以前は思い出すたび気が塞いだ出来事があった。
 その頃は必要単位も取り終わっていたため、大学に足を運ぶ必要も無かったのだが、サークルの後輩に用事があってたまたま行ったとき、カフェテリアで話し込む香世と鞠を見かけた。
 「それで、卒業後はどうするの? 同棲?」
 「うーん、どうだろう」
 声をかけようと思ったが、なんとなくタイミングがあわず、そのまま物陰で一人、立ち聞きする格好になってしまう。
 「前にそんなこと言ってなかったっけ? 同棲してそのまま結婚まで持って行きなさいよ。伊崎くん、就職先いいとこ決まってんでしょ。すごくいい人だし、なんてったってアルファだし」
 「そうなんだけど……、実はもう別れようと思ってて」
 別れるーー。それを聞いて、ますます出て行きづらくなった。かといって、気になってその場を立ち去ることも出来ない。
 「え、なんで? もったいない」
 「あの人、いい人だし優しいのよ。甘やかしてくれるし、こうしてほしいって言ったこと、全部やってくれるし。でも、違うの」
 「違うって何が?」
 「優しいけど、それだけなの」
 「……それの何が駄目?」
 「つまんないのよ。あの人といても。あの人も多分、そうだと思う。ずっと気を遣われている感じがして、素でぶつかって来てくれないし、こっちもぶつかっていけない。実は私、達野くんからずっとアプローチされてて……。彼は亨みたいに優秀じゃないし、ガサツでワガママだけど、でも、彼といると、すごく楽しいの。すごく満たされてる気持ちになる。私が私でいられる気がする。馬鹿なこと、二人で喋ってるだけなのにね」
 そこそこ上手くいっていると思っていただけにショックは大きかった。
 ーーつまんないのよ。あの人といても。
 社会人になってから、アプローチを受けた相手と何人か付き合ってはみたが、いつもあの言葉が頭をよぎり、付き合いが深まるほど距離を置くようになってしまった。高校の時やさぐれて悪ぶっていた反動で、亨には誰にでもいい顔をしたがる、というよりいい顔をせねばならないという強迫観念のようなものがある。そこから来る優柔不断さから、フリーの時だとアプローチを断り切れず、大して好きでもないのに付き合ってしまう、というのも悪い。そんなことだから、すぐに綻びが出来て別れる。そしてまた声をかけられて、同じことの繰り返し。
 今なら、あの時彼女の言っていたことが理解できる気がする。ーーつまらない。素でぶつかって来てくれないし、こっちもぶつかっていけない。大事にせねばという義務感ばかりで、彼女に対して本気で怒ったこともなければ、弱音を吐いたことも甘えたこともなかった。喧嘩をしても頼り頼られ仲良くやっていく、彼女はそんな関係を望んでいたのだ、おそらくは。押しつけの自分本位な優しさなど意味が無い。
 今はあの頃よりまともな恋愛が出来ているだろうか。そう思いたい。今の相手はそう簡単に離せそうにないから、あんなふうに愛想を尽かされると困る。
 三年付き合った鞠から別れを切り出されたときは、仕方ないねと笑って引き下がった。遊びで付き合っていたわけではないが、もう自分に気が無い相手に追い縋るほどのエネルギーが湧かなかった。
 今度は同じ状況になっても、おとなしく行かせてやれそうにない。きっと雁字搦めに縛り付けてでも離さない。それぐらい好きになれた人。義務感からではなく何かしてやりたいと思えたし、甘やかしたいと思えた。
 男女問わず恋愛慣れしていそうに見えて、ちょっとしたからかいにでも頬を染めるほど初心で、意地を張るくせに寂しがりで、自信家のようでいてコンプレックスの塊で、無関心を装おうとするくせに焼きもち焼き。それから、生意気な口をきくくせにとても可愛い。
 突然の発情期で捕まえられて、会うたび新しい顔を見せてくれる彼といるのは心底楽しくて、容易く亨を夢中にさせた。彼の方も同じなのが何気ない言動で分かるから、ますます抜け出せなくなるのだった。


 リビングに入ると、キッチンからは揚げ物の匂いと油のはねる音がしていた。コンロの前に立つ楓の後ろ姿が見える。Tシャツのサイズが大きく、首元がやけにあいているから、あれは多分亨のものだろう。風呂上がりで着替えたのか。
 「ただいまー」
 「ああ、おかえり」
 声をかけると、彼は振り向き、またすぐ鍋に向き直る。
 「聞いて喜べ。今日はトンカツだぞ」
 「わーい。揚げ物は面倒くさいからやらないんじゃなかった?」
 「油の後処理がな。まあ、今日はお前が頑張れ」
 「俺、やったことないけど」
 「教えてやるから。明日は残ったカツでカツ丼にしよう」
 「うん」
 といことは、明日も来るということだ。
 心が浮き立つように感じ、そっと近づいて後ろから抱きつく。あいた首元からは揚げ物よりよっぽど美味しそうな匂いがする。
 思い切り吸い込んでいると、肘で腹を小突かれた。
 「油と火。ここは戦場」
 「じゃあ、ちゅーだけ」
 のぞき込むと、楓は首だけ回してこちらを見た。迷惑そうにはしているが、何も言わないので了承と受け取り、唇を軽く触れ合わせる。唇が離れ、目蓋が開いていく吊り目気味の眼の熱っぽさは、亨を好きだと言っている。わかりやすい。そこが可愛い。
 「……早く手洗ってこいよ。揚げたて食え」
 「はーい」
 よい子のお返事をして、洗面所に向かった。


 特製トンカツ定食を美味しくいただいた後はキッチンの片付け。それから少しテレビを見ながらくつろいで、風呂に入り、寝支度を整える。いつも通りのことをいつも通りにしてから、寝室に行く。
 ベッドの上では、楓が膝を抱えて座っていた。入ってきた亨を見たかと思えばすぐに目をそらし、そわそわと足先をこすり合わせている。何だろう。今更お誘いぐらいで緊張するとも思えないが。
 「どうしたの?」
 ベッドに腰掛けて問う。楓は意を決したようにベッドの上を移動し、足下側の床に置いてある小さな段ボール箱を持ち上げた。
 「これ、この前掃除してたら見つけちゃったんだけど……」
 うつむいたまま差し出された箱の中身は見覚えがある。亨が買ったのだから当然だ。いつぞやの手枷、だけではなく、足枷や首輪、ローターや張り型などもある。隠していたわけではないので、見つかっても問題は無い。
 楓はしどろもどろになりかけながらも、聞きたいことを並べ立てる。
 「俺が縛ってって頼むからって、前に言ってたけど、俺、そういう意味じゃないって否定したよな? なんで増えてんの? お前もしかしてこういう趣味があるのか? 今までやりたいの我慢してたの?」
 「そういうわけじゃないんだけどさ」
 『縛って』という言葉が妙に引っかかっていて、あれこれ考えているうちに亨自身も興味が出てきたのだった。これまでの様子だと、お喜びいただけると思うのだが、もちろん無理強いはしたくない。
 「それじゃ、今日は……」
 普通にしようねと言いかけたが、耳まで赤くした楓が遮る。
 「俺は、俺は別にやりたくないけど! 嫌だけど……。お前がやりたいの我慢してるのも可哀想だから、これぐらいならやってやらないでもないぞ」
 彼は箱の中から黒い革の首輪を掴んで、こちらに放る。この段ボール箱を見つけてから、亨の要望に応えるべきかどうか、考えに考えた末の結論だろう。見つけたときに動揺して狼狽えているのが容易く想像できて、笑ってしまいそうになる。だが、ここで亨が笑ってしまうと、また泣いて飛び出していこうとするかもしれないから、なんとか堪える。
 楓が投げてきた首輪を取る。
 「なんでこれをチョイスしたのか聞いてもいい?」
 「だって……、これって付けるだけだろ? 身体の動きが制限されたりしないし、ブルブルしたりしないし……。実害なさそうだから」
 「そっか。じゃあ、付けてみる?」
 「お前がそうしたいって言うならな。俺はやりたくないけど……」
 「ありがと」
 亨のために頑張るというのだから、ますます可愛い。大丈夫、おそらく気に入るはず。
 ベッドの上で胡座をかき、安心させるように微笑む。
 「それじゃ、付けてあげるから、先に全部脱ごうか」
 「……脱ぐの?」
 「どうせ脱ぐよな?」
 「そうだけど……。自分で?」
 「自分で。脱がせてほしい?」
 「それくらい自分でできる! でも、明るい……」
 「はいはい」
 サイドテーブルのリモコンを取って、天井照明を保安灯にする。未だに明るい中で裸を見せるのは恥ずかしいらしい。小さいからだの何だのと前に言っていたか。気にするほどではないのに。
 わざと豪快に脱ぎ捨てるのを鑑賞する。部屋着、次に下着。繊細だが華奢すぎない綺麗な線が露わになっていく。いい眺めだ。ヌードをスケッチさせてほしいと頼んでみたいが、絶対に断られる上に怒られそうなので言ったことはない。
 「おいで」
 呼ぶと、素直に寄ってくる。足の上をまたがらせて、亨の手で一糸纏わぬ肢体に黒革の首輪を巻き付け、ベルトで長さを調節する。
 「苦しくない?」
 「大丈夫。けど、こんなの、何が楽しいんだ?」
 「それで終わりじゃないよ」
 段ボール箱の中から、黒の持ち手がついた鎖を取り出し、箱は邪魔になるので床に下ろす。彼の付けている首輪の喉元部分には小さな金属の輪がついており、そこにこの鎖が繋げられるようになっている。
 「これをこうやってね」
 鎖を接続させる。楓は呆然とその単純な作業を見ていた。
 「付属品なんてあったの? これじゃ、ほんとにそういうプレイみたい」
 「うん、そうだよ」
 「そんな爽やかに断言するなよ。否定してくれよ」
 「でも、好きだよね、楓は、こういうの」
 持ち手と鎖の中ほどを持って軽く引くと、鎖のたわみがなくなり、彼の上半身がわずかに前に傾ぐ。
 「これで逃げられないね」
 「……あ」
 見開かれる彼の眼に確かに灯った欲の火を、見落としたりしない。芳しい匂いが一瞬にして濃くなったように感じる。縛られたいと、精神的に拘束されたいと望んでいるなら、こういうものは打ってつけだろう。
 「始めよっか」
 楽しい。新たな性癖に目覚めたらどうしよう。明日は平日でお互い休みではなかったが、夜更かしする日になりそうだった。

(番外編)一緒にご飯を食べたあと 了



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