かえでシロップ
(番外編)似た者同士の十年ちょっと

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 新しい暮らしが始まってすぐ、薫は重大な選択を迫られる事になった。妊娠が確定したのだ。堕胎するなら早ければ早いほどいい、と言われたが、実際エコー画像を見て、産むことに決めた。わずか数ミリの小さな点は、もう心臓が鼓動していると言う。産んでもいい。産んでみたい。充の言うとおり、もうこれが最後のチャンスかもしれないし。番関係の解除については、身重の身体にどんな影響があるかわからないから、とりあえず出産まで保留にしておくことにした。
 無趣味のワーカホリックなので、貯金はある。子供は一人で育てられるはず。産休育休も充分取れると誠一は約束してくれた。育休明けに職場復帰できることも。新しい秘書が来たと思ったらすぐに産休。秘書がころころ変わって、今の上司にとっては迷惑だろうが、我慢していただくしかない。時子には堕胎すると言ったから、このことは知らない。知らせるつもりもない。
 オメガ男の妊婦の噂は、他の従業員の間に徐々に広まりつつあった。グループ総帥の伊崎誠一の秘書をしていたのに格下げされたとか、伊崎邸に同居していたのに追い出されたとか、そんなことまで。格好の噂の的だ。慣れてはいるが、周りでうるさくされるのは嫌いだ。日々小さなストレスが溜まっていった。


 充と離れてから三ヶ月後、出向になって半年後、充が帰国したらしいという話は聞いた。会いたかったわけではないが、また騒がしくされるのが嫌なので、動向が気にはなった。
 それからさらに一ヶ月ほど経ったころ、薫の疲れとストレスはピークに達しつつあった。悪阻は乗り越えたものの、体調が通常ではないし、味方のいない環境がじわじわと精神を弱体化させていく。
 服を着ているとわからないが、裸の腹の膨らみは目立ち始めてきたし、小さな胎動を感じることも出てきた。親になるプレッシャーが日に日に大きくなる。しかし、つらくても誰も助けてくれず、疲れて帰ってきても一人。家では栄養を取らねばと無理やり食べ物を詰め込み、糸が切れたように眠るだけ。たまにどうしようもない孤独感に襲われた。最近肌寒くなってきたし、日が暮れるのも早くなってきたから、余計にそう感じるのかもしれない。
 一人で産んで育てると決めたのは薫だ。だが、浴室の鏡で首筋に残った歯形が目に入ると思うのだ。あんな男でも、いないよりはましだったと。あのとき一緒について行っていればどうなっていたかと考えるようになるなんて、薫は相当まいっているらしい。自分はこんな弱い人間だったのかと自己嫌悪に陥り、意味もなく叫びたくなった。
 何なのだ、これは。妊娠中のホルモンバランスの乱れによる精神不安定? それとも、番と引き離されると強いストレスを感じるというあれか? もう嫌だ。誰でもいいから助けてほしい。でも、いつだって薫を助けてくれた誠一はここにはいない。もう頼れないし、頼れる状況だったとしても、きっと頼らない。それは離別を受け入れた薫の、最後に残った意地だった。
 帰宅して、夕食と最低限の家事、風呂を済ませ、早めに寝ようとしていたとき、電源に繋いだ私用のスマホがメールの通知音を鳴らした。プライベートの知人が少ない薫にとってはめずらしい。誠一だろうか。ときどき、それが義務であるかのように、様子を聞くメールを送ってくる。近頃はその返信をするのも億劫になってきた。
 しかし、恩人には違いないので、蔑ろにするわけにはいかない。眼鏡をかけて確認してみると、登録にはないが、見覚えのあるアドレスからだ。名前と数字の羅列という組み合わせだから、すぐにわかった。
 「充……?」
 どうして薫のアドレスを知っている。誠一が言ったのか? 絶対教えるなとあれだけ口止めしていたのに。
 いったい何の用だ。またくだらない用事を押しつけようとする内容なら、画面を叩き割ってしまうかもしれない。最近の薫はずっと虫の居所が悪いのだ。
 これ以上苛々の種を増やしたくないのなら、見ないのが一番だ。だが、気になって、放置したままでは眠れそうにない。五分ぐらいベッドでごろごろしながら迷った末、メールを開くことにした。
 タイトルも本文もないが、動画が添付されている。動画か。動画……。引っかかるところがあって、再生する。
 映っているのは充と、充がかつてストーカーしていた玉木桜だ。仁王立ちする桜の前で、充は頭を床に付けて這いつくばっている。
 『番ができたからあなたとは結婚できません。ごめんなさい!』
 『謝るのそこじゃないでしょ。ストーカーしてごめんなさいでしょ。ほんとキモいんだけど』
 動画はそこで終わっている。十五秒の短いもの。
 「あいつ、本当にやったのか?」
 四ヶ月前に薫がふっかけた無理難題。薫のことを諦めさせるためだったのに。どれだけ馬鹿なんだ。笑いがこみ上げてくる。仕事のための作り物じゃない笑いなんて、いつぶりだろう。もうずっと何年も、心から笑ったことなんてなかったかもしれない。
 もう一度再生ボタンを押そうとしたとき、電話が鳴った。登録にない番号だったが、迷わず出た。
 『メールを開封したのわかったから。動画見てくれた?』
 聞こえてきたのは予想通りの声。そのことになぜこんなにも安心するのだろう。
 「あなたはまったく、救いようのない馬鹿ですね」
 『ひどい。薫が出した課題じゃない』
 「今度は通報されなかったんですか?」
 『うん。亨に頼んで取り次いでもらったから』
 「亨さんもよく引き受けてくれましたね」
 『何度も何度も頼んだからね。何ヶ月もかかっちゃったけど』
 「……そうだったんですか」
 面倒臭がりのあの男が何ヶ月も諦めなかったなど、にわかには信じられない。適当なことを言っているだけかもしれないが、今は信じてやってもいい気分だった。
 「アドレスもこの番号も、どうやって調べたんです。またストーカーみたいな真似を」
 『父さんに何度も何度も何度も頼んだら教えてくれた』
 「どうせろくでもない方法を使ったんでしょう」
 『そんなわけないじゃん。ああ、世間話程度に、今度の彼女は女子高生なんだね! 十七才と付き合えるなんてすごーい! とは言ったかな』
 「それを脅しと言うんですよ」
 いかにも充らしくてさらに笑える。もう会うつもりもなかったのに、電話越しとは言えこんな風に普通に会話しているのが不思議だった。
 『僕が尊敬する父さんを脅すわけないじゃん。薫が悪いんだからね。急に音信不通になっちゃって、僕は涙で枕を濡らす日々』
 「噓くさい」
 『嘘じゃないよ。動画見たでしょ。薫のために頑張ったんだから。課題をクリアしたときの約束、覚えてる?』
 「忘れました」
 『なら教えてあげる。結婚して』
 正確には、約束ではなく、考えてやってもいいと言っただけだ。でも、自分と結婚したいがためにこんな馬鹿をしでかしたかと思うと、なんだろう、呆れている、というのも間違いではないが、もっとふさわしい言葉がある気がする。優越感を感じる? 嗜虐心が満たされる? しっくりこない。ああ、うれしい? そう、薫はうれしいのだ。
 「そういうこと、電話で言うものなんですか」
 『そうだね。直接言うから開けて』
 オートロック前からの呼び出し音が鳴る。
 『今薫のマンションの前』
 ベッドから降りてモニターを確認すると、確かに充が映っている。片手にはスマホを握り、カメラに向かって空いた手を振っている。ここを開けて彼を招き入れるということは、どういうことを意味するか、薫もわかっていた。でも、会わないまま返すなんてできなかった。どうなってもいい。会いたい。その衝動には抑えが効かない。オートロックを開け、部屋の内鍵も開ける。
 ドアを開けて玄関に入ってきた充は、薫を見るなり抱きしめた。痛いほどきつく。
 「……やっと来られた」
 懐かしい匂いがした。大嫌いな男の大好きな匂い。胸が締めつけられるように感じ、その背に腕を回す。温かい。とても。
 「遅い……。番だと言いながら、どれだけ一人で待たせるんですか」
 「ごめんね。すごく時間かかっちゃって」
 「あれくらい楽々こなしてもらわないと。あなたという人は、私がいないとこんなこともすぐにはできなくて……」
 「ごめん」
 「許しません。絶対、一生」
 薫から音信不通になったにも関わらず、彼を責める。不安で苦しんでいた薫を一人で放っておいた罰だ。一生かけ償え。
 彼が何も答えないので、少しだけ可哀想になって付け加える。
 「……まあ、でも、あなたにしては頑張りましたね」
 彼の髪に指を絡め、薫から口づけた。


 セックスしたのは発情期の時以来だ。あの時のように欲望のまま交わりあうのも悪くないのだが、腹の子に障ると困る。中で出すのは一回にとどめ、ふやけて溶けそうになるまで、指と口で互いの肌を愛撫した。
 満足するまで触れあってから、一つの毛布に二人で包まる。温められた空気で満たされた毛布の中に頭を突っ込み、充は「薫の匂いがいっぱいする」と喜んだ。それを可愛いと思うなんて、番が馬鹿なら薫まで馬鹿になるのか。
 もぞもぞと毛布から這い出てきた充は、上目遣いで問う。
 「ほんとに結婚してくれるんだよね? 父さんじゃなくて僕のものになってくれるんだよね?」
 「夫婦って対等なんですよ。私があなたのものになるというなら、あなたは私のものになれるんですか?」
 「うん。薫がふらふらしなきゃ、僕もふらふらしない」
 相変わらず軽く言うものだ。でも、弱っている今はそれを嘘ではないと思いたい。
 「いいですよ。伊崎家を乗っ取って竹司帝国を築きます」
 どうせ結婚するのなら、妻の座をとことん利用してやるつもりだ。子育てには金がないよりあった方が当然いい。のちのち仕事も自由に好きなことをできるようになるだろう。
 乗っ取るというのは強すぎる表現だが、それくらいの気持ちでないと、伊崎時子には太刀打ちできまい。彼女はまたこの結婚に怒り狂うだろうから。
 だが、馬鹿な充はどうでもいいことが引っかかったようだった。
 「え、なに竹司帝国って。僕竹司充になるの?」
 「嫌なんですか」
 「嫌じゃないけどー」
 「けど何ですか? 嫌と言うなら結婚の話はなしです」
 また唇を尖らせるなんて子供じみた仕草をしているから、額を指ではじいてやる。
 「痛い……。いいよいいよ! 竹司充でいいよ」
 「素直でよろしい。あなたはそうやって私の言うことを聞いていればいいんです」
 こうやって少しずつ調教していかねば。父親として役に立つように。
 充は狭いベッドの上で、さらにこちらに寄ってくる。落ちたらどうしてくれる。
 「結婚するってことは、一緒に住むんだよね。それで、また僕の秘書になってくれるよね」
 「私に人事権はありませんよ。確実にあなたのお母様が反対されるでしょうね。私のことをクビか離島送りかと騒いでいたぐらいですから。職場が離れている限り、同居も難しいでしょうね」
 「もう産休入れば?」
 「時期を早めるにしても、後任が見つかるまで無理だと思います」
 「そっか。じゃあなんとか考えてみる」
 なんとか、か。誠一か時子を強請るネタをまだ何か持っているのか。それとも全く別の方法か。また明日にでも聞き出そう。とんでもないことをしでかす前に。
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