かえでシロップ
(3)マフラーと横恋慕

4頁目


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 曲終わりで、口をもごもごさせながら楓は言う。
 「お前、なんか甘ったるいラブソングばっかりじゃね」
 「そういうことですよ。察してくださいよ」
 「何を?」
 「だから、俺から先輩への気持ちです! 歌だったら許されるんじゃないかと思って」
 「アウト。寒すぎ」
 「俺、今日で確信しました。やっぱり先輩は俺の運命の人です」
 藤谷は流れ出した次の曲を止め、楓の斜め向かいに腰を下ろす。なんだ、突然。またいつものやつが始まったのか。不快を露わにした口調で返す。
 「いつまで言ってんだよ、それ。今日は求愛しないんじゃなかったのか?」
 「やっぱり言わせてください。この前伊崎さんと二人で話して、諦めなきゃってその時は思いました。あの人なら先輩が好きになるのもわかるなって。でも、先輩と運命で繋がってるのは俺なんです。今日は先輩がそこにいるんだって、姿を見る前に匂いで気づきました。買い物の間もずっといい匂いがしてて、俺ドキドキしっぱなしで……。わかってるんです。こんなこと駄目だって。でも、ごめんなさい、俺、我慢できません!」
 早口でそこまで捲し立て、藤谷は覆い被さるように抱きついてくる。体格は似たようなものなのに、意外にも力が強い。
 ーー迂闊だった、なんてものじゃない。楓は大馬鹿者だ。この部屋には二人きりで、しかも大声を出しても外に音が漏れにくい。
 発情期に当てられたのか? いや、抑制剤はきっちり服用しているし、月に一回の注射も忘れていない。それに自分が発情していればさすがにわかる。
 なぜ? どうして突然? ここに来るまでは普通に、「友達」として買い物していただけなのに。
 藤谷の腕の中でもがく。
 「おい、やめろよ! そういうことするんなら帰るぞ」
 「なんでわかってくれないんですか? 先輩はほんとに何も感じないんですか? 伊崎さんに悪いと思って、言えないだけじゃないんですか?」
 首筋にかかる藤谷の鼻息が荒い。逃れようとすればするほど強く抱きしめられる。密着した下腹部に違和感があった。
 「お前、変な物押しつけてくんな! しかもちょっと固くなってるし……」
 「キスさせてください。今日はそれで納得しますから。ほんとはちょっとだけ触らせてくれるとうれしいですけど」
 「嫌だっつってんだろうが!」
 全身に鳥肌が立つ。本能が拒絶する。親しみを感じ始めていた男にひどい嫌悪感が湧き、考えるより先に身体が動いた。耳に噛みついてやると、楓を締めつけていた腕の力が緩む。その隙に全力で突き飛ばす。
 「もう二度と会うか! 大学でも話しかけてくんじゃねえぞ」
 「先輩! ごめんなさい。待って!」
 耳を押さえて立ち上がれない藤谷には見向きもせず、楓は出て行く。
 まったく最低の誕生日だ。亨とは喧嘩中だし、友達になれると思った男に襲われかけた。マフラーを忘れてきてしまったが、取りに戻る気にはなれなかった。


 その足で亨のマンションへ行った。帰りが何時になるかわからないが、会わずに寝られる気がしない。
 買い物の紙袋を端に寄せて置き、エアコンを入れ、テレビを付けて音量を上げる。ほどなくして日没になり、部屋の中が真っ暗になったが、明かりは付けずに、ずっとテレビ画面を見つめていた。
 スマホに藤谷からのメッセージが来ているのに気づいたものの、読んでなどやらない。見苦しい言い訳と謝罪が書き連ねられているに違いない。
 藤谷に対してはもちろんだが、自分自身の馬鹿さ加減にも腹が立っていた。アルファに襲われかけるのは初めてではないのに、またやってしまった。前回は避けるのが困難だったとはいえ、今回はカラオケになど行かなければ防げたことだ。
 それと、なんだろう、この胸のもやもやは。そう、藤谷が楓の匂いに興奮して抱きついてきたということだ。駄目だとわかっていながら、それでも我慢できないのだと彼は言った。衝動を堪えようとしても堪えきれないほど、その匂いは彼にとって魅惑的だったのだ。
 藤谷は楓からいい匂いがすると言っていたのは初対面のときからだ。今まで藤谷が感じる匂いなんて勘違いだと一蹴してきたが、本当に彼にもわかるのか? 楓が亨に感じているような、安らがせもするし、昂らせもする、あの不思議な匂い。
 そうなると、やはり運命などないことになる。唯一無二の組み合わせがあるとしたら、楓の匂いは亨にしかわからなくて、亨の匂いも楓にしかわからないはずだ。
 楓の匂いがわかるやつが他にいるのだから、亨の方もそうかもしれない。それで、亨もそいつのことをいい匂いだと思ったら? 彼は楓から離れていきはしないか。
 思考がどんどんネガティブになっていく。そのうち涙腺が緩んでくる。近頃はそう不安に苦しむこともなくなっていたのだが、薬の副作用がいけない。
 早く会いたい。抱きしめて、安心させてほしい。
 待ち望んでいた亨の帰宅は七時過ぎだった。思っていたより早かった。彼はリビングの明かりを付けると、テレビの前で膝を抱え涙で目を赤くした楓を見て、ぎょっとしていた。
 「うわ、なんだ、お前か。どうしたんだよ。明かりも付けずに」
 「亨……。藤谷が」
 「藤谷?」
 「ごめんなさい……」
 涙がまたぼろぼろ溢れてくる。亨はカーペットに膝をついて楓の背を撫でる。
 「ちょっと落ち着け。何があったんだよ」
 「今日、藤谷と駅でばったり会って一緒に買い物した」
 「うん、で?」
 「休憩がてらカラオケ行って、そこで抱きつかれて」
 「それから?」
 「蹴り飛ばして逃げてきた」
 「それで?」
 「……以上だけど」
 「ん? じゃあなんでそんなに泣いて……」
 顔を覗き込んできた彼のジャケットを握る。
 「怖かったんだよ! 抱きつかれたときちょっと勃ってて……。俺の匂いに興奮したんだ、あいつ。友達にならなれるかもって思ってたのにショックだった……」
 「……うん、そうか。よしよし」
 通勤用の服を汚すといけないと遠慮していたのに、亨は楓を抱き寄せて頭を撫でる。肩口が涙で濡れてしまった。
 やはり抱きしめられるならこの腕がいい。こうされているだけで愛されていると実感できて、不安や腹立ちが消えていく。散々文句を言ったって、それは彼を独り占めしたいし、されたいからで、大好きなことに変わりはないのだった。
 「……怒んないの?」
 「なんで?」
 「俺のことを好きだって言ってるやつと一緒に遊びに行ったから」
 「叱ってほしい? 悪い子ダメって」
 亨は怖い顔を作って人差し指で楓の鼻先を押す。確かにそれも魅力的だ。縛られている、執着されている、と感じることができるから。でも今は。
 「いっぱい良い子良い子ってしてほしい」
 生クリームを湛えた湯船につかって完熟のイチゴを食べるみたいに、甘い気分にさせて。
 「そうだなあ。誕生日だからな」
 「うん」
 「今日はごめんな。二十一歳おめでとう」
 焼肉もケーキもないけれど、このキスがあれば充分。


 晩ご飯まで我慢できず、寝室で存分にじゃれあった後、リビングで並んでくっつきながら座り、ずいぶん遅いディナータイムに入った。スピードを重視した結果、本日のメニューは、冷凍餃子を焼いたものと余り物で作った野菜炒め、それからレトルトご飯。野菜もきっちり取っているし、これで充分。
 口を開けて催促すると、亨は餃子をわざわざ二つに割って、半分を楓の口に放り込む。
 「なあ、年末年始予定ある?」
 「別にない。バイト先も休んでるし」
 「旅行いかね? 二泊三日くらいで。今日の埋め合わせってわけじゃないけど」
 旅行か。日帰りはあるが、彼と泊まりがけで出かけたことはまだない。
 残り半分も貰い、味わって食べる。よく買うメーカーの餃子だが、いつもより美味しい気がする。
 「今から予約取れるのか? 馬鹿高いところしかないんじゃね? あ、お前の実家絡みだったら大丈夫なのか」
 「いや、その手は何がなんでも使わない。自力で探す。どんなとこがいい?」
 「任せる。風呂トイレ共用とかいう安アパートみたいなとこじゃなければいい」
 「了解。焼肉はまた来週にでも改めて」
 「うん」
 今からわくわくする。遊園地でアトラクションに乗り回るのも、山奥の温泉旅館で何もせずゆっくりするのも、知らない街をあてどなく歩き回るのも、どんな旅だってきっと楽しい。それまで頑張ってバイトしよう。いつもいつも出してもらってばかりだから、今度こそ折半出来るように。
 楓も箸で餃子を掴むと、亨の口元に持って行く。
 「ありがと」
 彼が口を動かすのを見ていると、数時間前の心細さが嘘のように、幸せで胸が苦しいくらいになる。
 そうやって食べさせ合いをして、皿がほぼ空になってきたころ、亨のスマホの通知音が鳴った。彼はいったん箸を置いてそれをチェックする。
 「藤谷からだ」
 「はあ? なんでお前のとこに来るんだよ」
 せっかくいい気分でいたのに。そんな名前は聞きたくない。
 亨は藤谷の口真似でメッセージを読み上げる。
 「先輩を怒らせちゃいました、どうしましょう、……だって。これ、送信先が先輩の彼氏だってわかってるのかな。こいつどうするんだよ。俺から話す?」
 「いいよ。ほっとけ、あんなの」
 あんなやつのために亨の時間を使わせるのは申し訳ない。IDをブロックして放置でいい。
 「そんなわけにもいかないんじゃね。また学校で絡んできたらどうするんだ」
 「殴る」
 「殴ったってどうにもならない状況だってあるだろ。今日は運良く逃げられたからよかったようなものの……。今日は誕生日だし、うるさく言うつもりなかったけど、もうちょっと危機感持って自衛しろよ」
 「……わかってるよ」
 「本当に?」
 どんなに機嫌が悪く見えるときでも亨が小言を言うのはめずらしいから、今回はよほど楓が危なっかしく感じたのだろう。楓を案じてくれている証拠なので、こんなふうに叱られるのはうれしい。
 大いに反省はしている。すり寄って肩に頭を持たせかける。
 「……心配かけてごめんね?」
 「それやったら許してもらえると思ってるだろ。あざとい」
 「許してくれないのか?」
 「許すけど……。藤谷とは話をする。これは譲れない」
 「何を話すんだよ」
 「今ここで電話する。スピーカーにするからお前も聞いといて」
 「……でも」
 「いいから。任せとけって」
 楓の制止は聞き入れてもらえず、亨は藤谷の連絡先を呼び出し、電話を架ける。ワンコールで繋がった。スマホを握りしめて待機していたとしか思えない素早さだ。
 『伊崎さん!』
 「おう」
 『俺、馬鹿なことして先輩を怒らせちゃったんです』
 「楓に聞いたよ。めっちゃ怒ってんぞ。どうすんの」
 『とりあえず謝ります』
 楓は首を振って拒否を示す。
 「嫌だってよ」
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