かえでシロップ
(3)マフラーと横恋慕

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 窓から入ってくる冷たい風が、伸びすぎた髪を撫でていく。
 昨日は季節外れの寒さでマフラーがいるほどだったが、今日は上に長袖のTシャツを着ているだけだ。昨日と気温はさほど変わらないはずなのに暑く感じるのは、動き回っていたからだ。今日の楓は張り切って頑張ったのだ。
 先日、亨宅で倉庫として使われていた一部屋の整理が完了した。数ヶ月かかってやっとだ。怪しげな美術品のうち、預かっていた物を七割方持ち主に返し、残りを作業部屋に移して空にした。
 今日は朝から、通販で届いたカラーボックスやチェスト、ハンガーラックの梱包を解いて組み立てをし、それを空いた部屋に運び込んだ。そして、寝室やリビングの隅を占領していた楓の荷物を移動させ、収納。これで楓の部屋の出来上がり。万歳。
 前々から半同棲状態で、実家には週に一回くらいしか帰っていなかったが、亨のテリトリーの中に目に見える形で自分の居場所が出来てうれしい。
 楓の荷物がなくなってすっきりしたリビングで、亨とコーヒーを飲んで休憩する。コーラでも一気飲みしたい気分だったが、無いものは仕方がない。買いに行くのも面倒だ。
 カーペットに腰を下ろし、だらりとソファにもたれる。
 「結構疲れた……」
 「ご苦労さん」
 「爪ボロボロだわ」
 「カッター使わないからだろ」
 通販の段ボールを素手で解体していたので、何カ所か爪が欠けてしまった。伸びすぎていたせいもある。
 亨は立ち上がって爪切りとチラシを持ってきた。再び胡座をかいて座り、楓の膝の上に広げたチラシを置く。
 「ほら、手出して」
 恭しく楓の手を取り、爪を切り始める。それを楓は当たり前のように受け入れていた。甘やかされるのにすっかり慣れきっているのだ。こんなこと楓は要求していないし、亨がやりたくてやってくれていることだ。だから、甘えたっていい。
 こんなふうにされると自分が何か特別で素晴らしいものにでもなったような気分になる。敏感な指先に触れられるのは気持ちがよく、うっとりとしてしまう。
 亨が集中しているので、自然と会話が無くなる。パチリ、パチリと爪を切る音が響く。
 昨日から言おうかどうか迷っていることがある。嫉妬させたいみたいだと取られたら嫌だし、特別報告せねばならないことでもないので言う必要も無いのだが、おかしな出来事を経験したので喋りたい。結局喋りたい気持ちが勝った。
 「昨日のことなんだけどさ」
 「ん?」
 「学校でいきなり後輩に求愛されて」
 「ああ、いつもみたいな?」
 「それがちょっと違うんだよ」
 聞き流してくれてもいいというぐらいの気持ちで、ぽつぽつと話し出した。


 昨日のことだ。キャンパス内で、次の授業が行われるF号館へ移動していたとき、いきなり男に跪かれた。
 「俺、藤谷和真(ふじやかずま)っていいます! 玉木先輩、付き合ってください!」
 「……は?」
 アルファ男の強引なアプローチを受けたことは数知れないが、ここまで直球なのは初めてだった。大抵はまず遊ぼうとか食事に行こうとかと誘われる。目の前の、いかにも大学デビューで気合いを入れました、というような茶髪の男がアルファなのかは知らないが。
 「付き合ってください!」
 聞こえていないと思ったのか、練習中の高校球児並みの大声を張り上げる。差し出された右手をどうしろというのだ。
 すれ違う学生から囃し立てるような声が聞こえる。こんな風に注目を浴びるのは好きではない。
 「おいやめろ。あのな、無理だから。俺もう相手いるんだわ。他を当たって」
 右手を引っ込めて立ち上がった男は、大きな目をさらに見開いて大きく口を開く。一つ一つのパーツの主張が強くて暑苦しい顔だと思った。
 「嫌です。玉木先輩がいいんです!」
 「お前、一年生?」
 「はい! ピッカピカの一年生、経済学部の藤谷和真です!」
 「ああ、もう声でかいわ。うるさい。お前がどんな噂を聞いてきたのかだいたい検討つくけど、俺は誰にでもヤラしたりしてないから諦めてくれる?」
 来る者拒まずだとか、学内のアルファを食い荒らしているとか、楓に振られたアルファ男たちが勝手にあることないこと言い触らすのだ。それにはもう慣れてしまって、大した実害もないから、いちいち訂正していないが、本気にして突撃してくる馬鹿がいるのは困りものだ。
 藤谷は熱く訴える。
 「ヤリたいだけじゃないです。俺は真剣に先輩と付き合いたいんです。だって、先輩は俺の運命の人だから!」
 「……はあ?」
 運命の人か。そんなこと言い出すのだから、こいつはアルファで確定か。
 アルファにはオメガの、オメガにはアルファの、番になるべき唯一無二の『運命の人』が世界のどこかに存在していて、出会った瞬間から惹かれ合う、という話はかなり昔からあるらしい。少女マンガや女性向けドラマの定番だが、お伽噺や都市伝説のようなもので、それを本気で信じている大人はほとんどいない。
 寒風が吹き抜けて、マフラーを引き上げる。
 「とにかく……」
 「運命の人とは匂いで引き合うって聞きました。先輩からはすごくいい匂いがします。他のオメガの人とは全然違う。先輩の噂は前々から聞いてましたが、今日すれ違ってこの人だって確信しました。男漁りはやめて俺と付き合ってください」
 「漁ってねえわ。俺はお前からいい匂いとやらを感じない。一方通行だな。ってことは運命じゃない。さあ、もう行った行った。そろそろ次の講義始まるぞ」
 「もっとちゃんと嗅いでください。あ、鼻炎持ちとかですか」
 ぐいぐいと距離を詰めてくるのを押しのける。
 「違う。やめろ。寄るな。ここまで近づけば充分だろ。匂いなんてない」
 「じゃあ、せめてID交換してください。まずはメッセージで愛を育みましょう」
 「俺、相手いるって言ったろ。どいて。もう行くから」
 藤谷の脇を通り抜けて、足早に歩き始める。
 「先輩、俺あきらめませんからー!」
 背後から聞こえる叫びは、もちろん無視をした。


 爪切りをしながら話を聞いていた亨は、目線を楓の指先に落としたまま言った。
 「へえ。おもしろいやつだな」
 「おもしろくはねえけど、今までいなかったタイプではあるな。運命って何だよ。そんなこと言ってるやつ女子大生でもイタいわ」
 慶人と実琴は信じているようだったが、正直に言うと度を過ぎたバカップルだとは思う。本人たちは幸せそうなので、楓がとやかく言うことではないが。
 亨は仕上げに爪先にやすりをかける。白い粉がパラパラとチラシの上に落ちる。
 「お前の匂い、ほんとに分かったのかな」
 「ただの勘違い、というか思い込みだろ。オメガがめずらしくて寄ってきただけだって」
 「俺は楓の匂い好きだよ」
 「そんなこと言うのはお前だけで充分。他のやつにはわかんなくていいよ」
 「そうだよね」
 手を止め顔を上げた亨は、やすりがけの出来を確かめるように、にこにこと楓の指先の輪郭をなぞる。
 「……なんだよ」
 「なんでも? 藤谷くん、あきらめてくれなかったらどうすんの?」
 「そのうち飽きるよ、多分」
 他の可愛いオメガの女の子を見れば、そっちが運命だと騒ぎ出すだろう。これまで一度も話したこともないのに付き合いたいなんて言うくらいだから、そのくらいの軽い気持ちに決まっている。
 楓の指に付いた汚れをティッシュで拭い、亨はゴミを集めたチラシを丸めた。
 「はい、終わり。爪磨きも買ってこようかな」
 「爪をデコる人になれそうだな」
 「ネイリストな。マニキュアと筆があったら絵ぐらい描いてやるぞ。やったことないけど、たぶんいけるだろ」
 何かにつけて器用なのでうらやましい。彼が丸めたチラシを投げると、綺麗な弧を描いてゴミ箱に収まる。手先が器用なだけではなくて、こういうことも器用にこなす。あとは朝からやっていたような家具の組み立ても。その器用さを見るのは好きだが、爪にお絵かきはされたくない。
 「いらねえよ。お前はいつも爪綺麗にしてるよな」
 爪切りは終わったのに、楓の手を離さず触っている彼の指先に目を落とす。
 「こまめに切ってるだけ。社会人には身だしなみは大切よ。それに、爪長かったら痛いだろ」
 「痛い?」
 「まあいろいろと。そういえば、今月お前の誕生日あるじゃん。何か欲しいもんある?」
 話題転換が急だ。テレビにクリスマスプレゼント特集が映ったからだろう。まだ十一月になったばかりなのに、テレビの中はいつだって気が早い。子供が喜びそうな最新ゲーム機などが紹介されている。
 「いいって、別に。俺はお前の時、天ぷら揚げただけだし」
 「あの変わった人形もくれたじゃん。飴人間の」
 「あめ左衛門な。あれはおまけっていうか……」
 形に残るものが何もないのは寂しかったので、実琴のおすすめ商品を追加しただけだ。大した金額ではなく、天ぷらの材料費の方が高くついた。
 「ほら、あれ、ゲムステいらないの? 言ってたのもう一年以上前だけど」
 「もういらないよ。やってる時間ないから」
 以前は実家で一人ゲームをする時間がたくさんあったが、ここに入り浸るようになってからは、より多くの時間を亨と共に使いたいと思うようになっていた。誕生日に特別な物をもらうより、彼と二人で過ごせれば、楓はそれでいい。もう少し欲を言うなら、いつにも増してべたべたに甘やかされたい。だが、彼はよっぽど楓に貢ぎたいらしい。
 「じゃあ、焼肉行こう、焼肉。とびきりいいとこ」
 「高いとこじゃなくていいぞ」
 「なんだよ、誕生日だろ? 去年はお前の誕生日知らなくて何も出来なかったから、今年はパーッと派手に」
 「貯金しとけよ。じゃあ、そうだな、肉買って家で焼こうぜ。ホットプレート……、はなかったか」
 「うちにはないな。でも買えばいいだろ。これからも使うだろうし。煙が出ないやつにしよう」
 「うん。楽しそう」
 おうち焼肉なら、外で食べるより安上がりだろうし、家で二人きりで過ごす時間も長くなる。誕生日が待ち遠しいなんていつぶりだろう。
 ホットプレートは来週末に調達しに行くことにした。


 予定通り、週末はヨドジマデンキにやって来た。いつぞや亨を引き連れてゲムステ5を買いに来たのと同じ店舗だ。
 今回用があるのは地下二階ではなく地上四階。吸煙機能があって大きめのものを選ぶとそれなりのお値段にはなったが、「ずっと使えるから」と亨が言うので、希望条件の揃ったものに決めた。ありがたいことに配送料無料で自宅まで送ってくれるらしい。帰りも電車だから助かる。
 亨が会計しているのを、壁にもたれかかって待つ。実のところ今朝から少々熱っぽく、それがだんだんひどくなってきた。風邪というわけではなく、発情期予定日前は毎回こうだから心配は無いのだが、身体がだるく、長時間立ちっぱなしでいるとつらくなってくる。この後も買い物したい気持ちはあるものの、まっすぐ帰ったほうがいいかもしれない。
 店員と話しながら何やら書いている亨をぼんやり見ていると、側頭部に大声が突き刺さってきた。
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